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歴史

1456年、ファン・パチェコ(Juan Pacheco)は、侯爵となった11年後に自分の出生地であるベルモンテ(Belmonte)で、この城の建設に着工した。
誰がこの城を設計した建築家なのかをはっきり示す文書は存在しない。また、通常、正方形か長方形のスペインの城にあって、この城と似た外部構造をもつ城は存在しない。スコットランドのケーラヴァロック(Caerlaverok)城に確かに似てはいる。多面のデザイン、六角形の星形、9つの壁面と、この芸術作品の分野ではユニークなものとなっている。
建築家はおそらくアネキン(Hanequin)であると思われる。ベルモンテ参事会教会(la colegiata de Belmonte)をファン・パチェコ(Juan Pacheco)のために設計した。さらに参事会教会と城の採石場の刻印は同じものである。
シエガスの塔といった城の外側の設計は、ファン・グアス(Juan Guas)の設計であるマドリッド(Madrid)のマンサナレス・エル・レアル(Manzanares el Real)城、アビラ(Ávila)のモンベルトラン(Mombeltrán)城のものに似ている。また、ファン・グアス(Juan Guas)は、セゴビア(Segovia)のエル・パラル修道院(el monasterio del Parral)をパチェコ(Pacheco)のために設計した。ちなみに同じ時期、ファン・グアス(Juan Guas)はガルシムニョス(Garcimuñoz)城の扉を設計している。
ベルモンテ(Belmonte)城の完成した年は、正確には分かっていない。1470年説、1472年説、1474年説があるが、最も有力な説は、1474年の終わりである。工事は、市民戦争(1475-1480年)への動きにより、手早く仕上げられ、設計図通り完成しなかった。
工事を終わらせたディエゴ・ロペス・パチェコ(Diego López Pacheco)の侯爵の紋章が城にあり、1468年に侯爵になったことから、工事の終了は、1468年以降、そして、1474年にカトリック両王(los Reyes Católicos)が城や頑丈な家の建設を禁止する勅令を出したことから、1474年以前であることは確かである。
未完である井筒状の柱、高さのないエル・オメナヘの塔(Torre del Homenaje)、まっ平らな塔、銃眼付きの胸壁にかぶさった屋根といったいくつかの形跡に見られよう、工事は基本的なところは完成したものの、当初の設計通りではなかった。
この城にある程度の高さがあった可能性はなさそうである。カトリック両王(los Reyes Católicos)は、ガルシムニョス(Garcimuñoz)城にしたように、防御を弱めることを命じたためである。城であるだけではなく、侯爵の豪邸であり、住居でもあったこの建造物をカトリック両王(los Reyes Católicos)は尊重しなければならなかったため、エル・オメナヘの塔(Torre del Homenaje)を高くすることだけが禁止された。
ファン・パチェコ(Juan Pacheco)は、1474年10月に亡くなった。そして、その少し後、市民戦争(1475-1480)が始まった。1478年にディエゴ・ロペス・パチェコ(Diego López Pacheco)が反乱軍から逃れて、かろうじて戻ってきた。そして、ここからいくつもの親書をカトリック両王(los Reyes Católicos)に送った。この村落で反乱が起こらないよう、カトリック両王の隊長たちによる征服を続けさせないためである。
1480年3月1日、ここで、ディエゴ(Diego)はカトリック両王(los Reyes Católicos)との協定に調印した。征服された侯爵の領地の支配の放棄である。カトリック両王(los Reyes Católicos)は、審議後、ディエゴ(Diego)を許し、王の執事として、侯爵の地位をそのまま認めた、というより領地の剥奪のみを行った。ただ、アラルコン(Alarcón)、ガルシムニョス(Garcimuñoz)、ベルモンテ(Belmonte)の3つの村はそのまま残された。